七尾コラム

2009年07月15日

「児童虐待」を考える

昨日は、全国の児童相談所に昨年度よせられた『児童虐待に関する相談件数』が「4万2、662件」で過去最悪、というニュースを受けて、児童虐待の電話相談や、医療関係者などに、虐待を受けた子どもたちの診察に必要な特別なトレーニング、コーディネーションなどの様々な活動をされている民間の団体、「子どもの虐待防止センター」(http://www.ccap.or.jp/ )に取材に伺いました。
そこでお話を伺う中で、このブログで共有したいと思うお話ががいくつかありました。

同じく虐待に関する調査で、「養護施設などに入所する児童の約5割が虐待を受けた経験がある」という結果。
この「5割」という数字ですが、これは今回改めて調査をして浮き彫りになった数字であって、衝撃を与えましたが、実際に子どもの虐待の予防に取り組んでいる現場の意識からすると「本当はもっとずっと多い」だろう、ということです。
というのも、、、たとえばこの「5割」の中には、「母親が行方不明」というケースは含まれていないのです。
これはしかし、子どもをおいて「立ち去る」、子どもは「放置される」ということですから、「ネグレクト(育児放棄)」という明らかな虐待に当たります。
研究者の間では、実際に「暴力」を受けるよりも、「放置される」(ネグレクトされる)ほうが受ける心の傷が深いことが知られているということです。

日本では、虐待=暴力という先入観が強いため、実際に死に至る可能性もある「ネグレクト」ということ自体が「虐待」に当たるという認識が社会で広まるには随分時間がかかったようです。
その認知を広めるために、こちらのセンターの創立者である小児科医の坂井聖二さんはご尽力されてきたとのこと。

こちらの発行しているニュースレターを頂いて、少し勉強する中で改めて感じたことでもあるんですが、やはり虐待というのはそれを生んでしまう社会的要因が大きくあるということ。

子どもと親が孤立してしまって、そこにストレスが溜まる。また性的虐待になると、診察する医師やカウンセラーにも特別な訓練が必要になってくるのですが、現場では必死の取り組みが行われているとはいえ、やはり予算も人出も足りていないという状況のようです。

「ネグレクト」に関しても、母子家庭で、何とか生活してゆくために、子どもにまともな生活をさせたいという一心で、日中はパートで働き、それでは足りずに夜も働きに出るシングルマザーがいる。
でも結果として子どもは夜一人で家にいることになり、「ネグレクト」になってしまう、子どもにはよくない、、、。
それはでは母親のせいか、というと、「そうではないのです、そこに支援を手をさしのべることも必要なんです」というふうに相談員の方はおっしゃっていました。

また、ニュースレターの中に、ある養護施設の職員の方が匿名で寄稿されていた報告があり、とても心が痛みました。
養護施設に保護された子どもたちの全国的な交流会の場で知り合った関西方面の養護施設で育った虐待を受けた青年の話です。
彼から電話があって、年末年始に日比谷で設置された「派遣村」に一緒に言って欲しい、と頼まれたところから、養護施設出身者がおかれる厳しい生活環境の実体をまざまざと感じられたそうです。

養護施設に入る子どもたちは、実質18才になると独り立ちしなくてはいけません。
成績がよくても、学費を払ってくれる親がいるわけでもなく(親から保護されて入所する子どもたちですから)進学を諦めなくてはいけない。
保証人も、最初は寮の人がなってくれても、その後引っ越しや転職をするときには保証人のなり手がいなくて家を借りることが難しい。
結果的に、住み込みで働く派遣労働者が手っ取り早く、魅力的に見えて、養護施設出身者の多くが派遣労働者で、会社に提供される寮で生活している、ということのようです。それが昨年の金融危機に端を発した日本の製造業の「派遣切り」の嵐の中で、路頭に迷ってしまう。

報告を書いた養護施設職員のかたによると、日比谷の派遣村では多くの養護施設出身者に会った、ということです。
世間では「なぜ実家に帰らないのか」と言う人がいるけれど、実はあの場所に集まった若者の中には「家も家族もない」という人が多くいたんですね。

養護施設についてですが、行政の予算も削られる一方で、ケアマネージャーも、職員も、人出が足らず、ひたすらバーンアウトして行っている状況とのこと。

虐待を受けた人が、また自分の子どもに虐待を繰り返すというケースが多いことは(様々な要因があります)よく知られていることです。
心に傷を受け、きちんとケアされないまま、社会保障もなく、住む場所も無く、社会の荒波に毎年多くの若者が放り出されていることを考えると、いたたまれなくなってきます。

選挙前の嵐が吹き荒れていますが、政治ができることはたくさんあると思います。

■社会福祉法人 子どもの虐待防止センター
 相談電話 03-5300-2990 (全国・相談無料)
 月~金 10:00~17:00
  土   10:00~15:00
 日・祝  休み

2009年06月02日

GM破綻とM&A件数、日本で急増について考えること

昨日は、アメリカでGMがチャプター11の手続きを取った=経営破綻した、影響について、GMの量販車をメインターゲットにサスペンションを納入している日本の部品メーカー、ヨロズに取材に行きました。全体の売り上げの2割弱がGMということで、確かに影響は小さくはありません。

ところが佐藤社長にお話を伺ってゆくと、昨年末頃からGMの破綻の可能性が指摘されてきた中、できる準備、対策は全部やってきた、ということで、それほど不安におののくということではなく、冷静に対処しているし、また冷静に対処できる、というお話でした。

それは、要するに徹底的なリストラクチャリングを行い、ムダを排して、スリムかつ競争力の高い会社にしてゆく、ということです。

この会社、元々は日産の系列だったんですが、ゴーンさんが経営を主導するようになって、日産が系列解体を行ったことにより、自分の足で販路を開拓・開発して生き延びなくてはいけないという試練の時代がありました。そのころ、売り上げも減少していた時期もあったそうです。系列解体の頃がざっと売り上げが700億だったのが、その後系列にとらわれずに世界中の自動車メーカーに売り込んでいったところ、売り上げがのび、2004年頃には1400億ぐらいと、まさに売り上げが倍増。危機をチャンスに変えたんですね。

その裏には秘密がたくさんあって、たとえば海外で生産するときも、部品の生産を落とさないだとか、そういった地道な努力をたくさんやってきているということでした。

このコストカットの嵐の時代でも、開発への予算は削らない、ということは至上命題にされているそうです。いつか需要が戻ってきたときのためにベストの商品を提供できるように、、、ということですね。

GM破綻、という決して明るくはない取材であるにもかかわらず、社長をはじめ社員の方が明るく元気で前向きだったのが非常に印象に残りました。

一時は、日産からアメリカの会社に株式が渡り、外資系だった時期もありましたが、その後自社株を買い戻して、今は独立系として頑張っています。

それは大分前の話しになりますが、このヨロズの株式の取引もいわゆるM&Aの一つであります。企業の株が買ったり買われたりして、持ち主がかわったり、合併したり、離れたりする。

昨年一年間は、アジア太平洋地域のM&A件数は、中国がトップでした。日本は抜かれていたわけです。それが、ここにきて日本におけるM&Aが盛んになり、中国を抜いて一位になった、というニュースが米経済紙ウォールストリートジャーナル紙アジア版で伝大きく伝えられています。1~3月期は、全体としてのM&A件数は20%近く減少しているにもかかわらず、日本は全体の30.6%を占め、中国はは19.5%だそうです。

これはどういうことか?先日、外資系アクティビスト(=モノ言う株主)・ファンドであるスティールがアデランスに提案した役員が株主総会で可決された、というニュースが流れました。これは、海外では「日本で初めてアクティビスト(=モノ言う株主)の手法が通った」とかなり大きく報じられていました。
スティールは、日本では当初「ハゲタカ」と呼ばれることが多くありました。厳密にいうと、外資系金融の世界ではスティールは<アクティビスト>(モノ言う株主)であって、vulture=ハゲタカだとは捉えられていません。

M&Aというのは、ドラマなどで話題になってきた<ハゲタカ>によって行われるというう印象を与えがちですが、今日本で増えているM&Aはそういう性質のものではありません。

ではどんなM&Aが日本で増えているのか?

むしろドメスティックな企業が、自分たちが生き残るために企業体質を改善するために行うM&Aが多くなっているのです。たとえば、日立や伊藤忠などの大手企業が、以前は参加にあったけれど現在は独立している部門の株を買い戻したり、あるいは逆に不採算部門を切り離す、というM&Aによって、経営体質の改善をはかろうとしていということです(WSJより)。

これは、GMが破綻するような現下の経済状況と直結しています。

例えば、同じグループの会社を100%子会社化することによって、素早く経済状況に対応することができます。また、優良な企業である場合(技術や優良資産を持っているなど)、他者に狙われる可能性も出てきますから、早めに自分のものにしておきたい。こういう背景があって、今年のマネジメント・バイアウト(経営陣が自社株を買い戻す、など)は昨年のほぼ二倍の件数になっているそうです(WSJより)。

しかも日経平均はいまだ低い。だから株価で言うとお得感がある。今買わない手はない、、、ということになります。というわけでM&A件数が増えているのです。
これは日本の生活者の観点からいうと、よい点と悪い点があります。
ここにご紹介したようなM&Aが多いということは、不況下でさらなる各産業の再編と淘汰が進む、ということです。

それは、より厳しい経済状況に迅速に対応できる筋肉質な企業を作る、ということになります。良く言えば。
経営側の観点から、また日本経済の観点からすると、それは必要不可欠、ということになります。
日本経済が再活性化するためには、少なくともやらなければいけないことであることは確かなのでしょう。
ただ、いわゆる「派遣切り」などで、私たちは「迅速に経済状況に対応できる効率のいい経営」が、働く人にとって時にどれほど冷酷になり得るのか、思い知りました。

それは、「効率よく労働力を調整できる」と同義でもあります。

「不採算部門の調整」も、「調整される人材」が否応なく出てきてしまいます。

もちろん、調整されて、新たな経営者のもとで立ち直れる企業だってあるでしょう。
色々なケースがあります。ただ、企業としては「経営努力」はやはりやらざるを得ない。
でもそこで厳しい立場に立たされる人が出てくる。そこを政府・地方自治体・コミュニティでサポートして行く、、、。
様々な政策が国会で議論されていますが、日本人としてこれからの社会保障や、セーフティネットをどう考えて行くのか、みんなで話をしてゆくのが大事ですね。

2009年03月27日

WBC!

WBC日本代表の凱旋帰国の瞬間を取材するため、成田の到着ゲートにて取材をしました。

ものすごい熱気と歓迎ムードでいっぱいの成田、取材していてもハッピーな気持ちになりました。

珍しいラルフさんとの取材現場ツーショットです。(写真は25日です)

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2009年01月15日

「グーグーだってINである」

「グーグーだってINである」

大島弓子さんのマンガに「グーグーだって猫である」という作品がありますが、この書き込みのタイトルにある「グーグー」は猫ではありません。
正しくは 「Goo-goos」という英語で、基本的には複数形で表されます。

これは「good government types」 の略です。
つまり「良い、グッドな政府」というものを推奨するひとたちのことをまとめて「goo-goos、グーグーたち」と言うわけです。

これは、大恐慌への一連のNEW DEALという対策をすすめたフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の時代のアメリカで使われた呼び方で、ニューディールと共に大挙してワシントンに押し寄せた若く、政治的希望(とそしてポジティブな野心)に満ちあふれたテクノクラートたち、のことを指します。公共政策で不景気から社会を救おうと考えた人たちです。

彼らは、限られた人たちに利益が配分されてしまう「小さくても不健全な中央政府」でPork Barrel Politics (もともとは豚肉保存用の樽、ですが、連邦議会議員が選挙区の利益のため政府の補助金を獲得することを表す米語です。ランダムハウス英和大辞典参照)と揶揄された腐敗した政治を改革して、「make government bigger and CLEANER」、政府を大きく、かつ「クリーン」(きれいに、清潔に)にすることをモットーとした人々。
アメリカのリベラルの間では(特に最近GooーGooについて書いたポール・クルーグマン氏をはじめとして)「政府」へのこういった視点を再評価する必要性が言われはじめています。

もちろん、日本とアメリカは行政機構、政治システムが違いますから、これは飽くまでアメリカの話しではあります。
ただ「政府」というものが「大きい」 =イコール = 「汚い」 という考え方自体、あるいはその前提について、問い直してゆく姿勢は大事のように思います。
つまり、どうせ腐敗してしまうから、ならば小さくしたほうがいい、という考え方ですよね。

でも、政府の役割というのは、どんなにスリム化して小さくしたところで、やっぱり「大きい」ことに変わりはないわけです。それは国民全員のサービスをまとめてやっている非営利機関ということで、本質的にそういうものです。
システムの大きさ、組織の大きさ、金額の大きさ、「政府の大きさ」に関しても色々な「大きさ」があると思います。

今のような流動性トラップにおちいった金融危機においては、政府が行う財政出動の「額の大きさ」、あるいは各国の中央銀行が行う「unconventional actions」「従来とは違う新しい対応策」(おもにCPを購入したりとか、そういういことが現在議論されています)の規模の大きさ、になるでしょう。
あるいは軍事的な危機では各国の国軍の「規模」という大きさが問題になります。色々な「大きさ」があるのです。

日本ではずっと「官僚システム自体」の「大きさ」が議論されてきました。大きすぎて「ムダ」が多かったり、あるいは「権力」が集中しすぎてアメリカの議会であるようなpork barrel politics が霞ヶ関と永田町一体となって起きて、腐敗と汚職の温床になってきた、ことが長年の改革課題となっています。

日本ではずっと、「大きさ」が「汚れ」を生む原因となってきた、というのが大方の見方です。もちろんそれは確かです。組織が大きければ大きいほど、個人が組織の力を自分の力だと勘違いしてしまい、「公」の意識を忘れてしまいがちです。

でも、本来的に「大きい」 と 「きれい」 であることは二律背反であるわけではないのです。そこを見誤ってしまうと、「小さくする」ことが「正しい」ということが目的化し、非現実的な政策が実現してしまったりします。医療費拡大を抑制するために行われた医師数削減などの数々の施策が、今になって私たちの生活そのものに脅威を与えることが起きてしまったりするのです。

求められているところでは「政府」は「大きく」あることも必要なのです。なおかつ「きれい」であることが大事です。

ただ、これを成立するためにはやはり「個人」の力が必要になってきます。その力とは、「モラル」「正義」を求める意思力でしょう。
そういった個人の人間力のようなものは、何も政府だけでなくて、どの大きな組織にも欠けがちだとしてありとあらゆるところで問題になっています。

「大きさ」と「きれいさ」をどうやって両立させるのか。
ある意味人類の永遠のテーマと言ってもいいかもしれません。

個人的には、goo-goo (グッド・ガバメント)は可能だと思っています。そのためには、個人、家庭、教育、会社組織、など社会のすべての場面で、ちょっとずつ変化が起きていかないといけません。一人がみんなのために、みんなが一人のために。使い古された陳腐なセリフのように聞こえますが、でもそこに希望を託さないと、閉塞した状況は打破できないのではないでしょうか。

英語では何かがファッショナブルであることを「IN」と言いますが、今アメリカではgood government、すなわち「グーグー」だって「IN」である、ということが言われ始めています。「政府」のあるべき姿について、示唆するところの多い現象だと思います。

2009年01月09日

農業・畜産業では人手不足。製造業から「農業」への「ワークシフト」の可能性

昨日のゼロの取材で、千葉の匝瑳市にあるサンファームという養鶏場にいってきました。
慢性的に人手が不足していて、高齢化が進んでいるといわれる農業・畜産・酪農業。卵の生産の現場も例外ではありません。
そこで、派遣切りなどで住むところにも困っている方々のニュースを見たファームは、業界団体がネットで行う共同の緊急募集に正社員四名の募集を掲示しました。
給与は18万円から。餌作りから卵を使ったお菓子やさんまで一貫した施設をもち、安全でおいしいものを消費者に届けたいという気持ちを共有してくれる人なら、経験は問わずにどなたでも歓迎だそうです。
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写真は衛生管理が厳しい養鶏場をサービスルームというところから覗かせていただく際に、雑菌などがはいらないように白衣(のようなもの、、、)を着ている私と佐伯カメラマン。
日本には世界に誇れる安全で美味しい「食」という産業があります。重工業系の製造業は新興国との競争で国内の製造拠点がますます厳しくなってゆくのは明らかです。
アメリカはそれを見越して製造業から金融への転換を国家戦略として図りました。それが失敗した今、アメリカ発の金融危機の影響が日本の製造業に波及している。重工業系製造業から、食の生産現場へと「ワークシフト」(労働力の移動)が行えるならば、それは日本の未来にも関わってくる大きな変化の芽生えではないでしょうか。
「食と農業」を日本の産業としてあらためて評価し直す機が熟しつつあるのかもしれません。
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もう一つの写真は、取材した養鶏場の卵を使ったお菓子を販売しているお店でゲットした「卵やさんのロールケーキ」。
お店の方が、「東京に有名なロールケーキ屋さんたくさんありますが、味では負けていません」とおっしゃっていました。家でいただいたら本当に美味しかったです。卵の味が柔らかくて、濃くて、フワフワでキメの細かいスポンジ。
養鶏場で採用されると、全ての工程、設備で経験をつみ、その後適性にあわせて配属されるということです。
今問題になっている「派遣切り」は、人材が道具のように扱われている「非人間性」に批判が集まっています。
人間的か非人間的か、ということでいえば、最初から最後まで環境と食と動物と人間にとっていいものを、というテーマが一貫したファームは、とても人間味あふれる働き場所のように思いました。

2008年10月17日

金融危機、「以前」

最近、海外の英語ニュースを見ていると、特にイギリスで
「BC」という表現を耳にする機会が多くなりました。
BCって元々は<紀元前>Before Christということですよね。
これにかけて、Before Crisis、つまり<金融危機、以前>という意味で使われているんです。
このことに関して、ちょっと色々考えました。

最初に<貨幣>あるいは<お金>という概念が出てきたのは、狩猟生活から農耕生活に人類がうつって、ひとつの場所に定着し、作物を「蓄える」ことができるようになってきてからだと言われています。
いっちばん最初の「お金」っていうのは、人類学者によると、骨からひきちぎられた<肉片>だったそうで、<血税>なんて言いますけど、言い得て妙です。

カトリックのミサで聖体の秘跡を受ける儀式がありますが、このときの<聖体>はキリストの身体の一部。私は高校がカトリックだったものですから、週に一回は秘跡をうけてました。まぁるいサクサクした甘くない御菓子みたいなもので、これはコインの様な形をしています。これは無意識に<貨幣>というものが<聖体>というものとつながっているのではないかと主張する宗教学者や哲学者もいます。そもそも資本主義と貨幣経済が爆発的に成長できるようになったのも<三位一体>という概念ができて、ひとつのものが無限大に増幅できるということを教会が認めたからだ、という説は結構支配的です。そもそもマックス・ウェーバーがそういうことを論じています。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において。

ラテン語で<マネー>を意味するPecuniaはもともと牛、を意味するPecusから来ているので、今回の金融危機で破綻寸前まで行ったメリル・リンチのマークが雄牛っていうのはこれはロジックが通っている話なのかもしれません。

更に言えばローマ神話の神様に「ユーノー」というのがあります。ギリシャ神話のヘラに相当する神様です。ユーノーは家庭の神様ということで、英語のJune、6月などの語源になっていますが、Junoと書きます。正しくは Juno Monetaといって、英語のMoneyの語源でもあります。このユーノーの神殿には牛が犠牲として捧げられました。

つまり、本来<お金>というものは私たちを守ってくれるはずの<呪術的なパワー>を与えられているものなんです。農耕民族になって、蓄える<富>というのは飢饉や敵対する部族からの攻撃に備えるものとなり、コミュニティを守ってくれる。干し肉などの保存食をたくわえることができるようになって、人間は明日の食べ物を心配する必要がなくなった。宇宙のこと、より抽象的なことについて考えをめぐらせることができるようになった。<貨幣>という抽象的なもので、<富>を交換できるようになって、<芸術>あるいは<文明>が産まれたとも言えるのです。

最初の<お金>でもある骨からちぎられた<肉片>というのは、狩猟という危険な仕事にかかわる男達に捧げられる畏敬の念もともない、狩猟以外の品物や労働と引き替えにすることができた。

<牛>という聖なる動物が捧げられるようになった<文明>においても、<お金>と<犠牲>と<神>は深いところでつながっていました。

お金は、危険なものから私たちを守ってくれるはずだった。だからみんな一生懸命<富>を蓄えようとする。

ボストン・グローグ紙のジェームス・キャロルという人のコラムに書いてあったんですが、

「だが現実には<マネー>は私たちを守ってくれるものではなくなってしまった」のです。

むしろ私たちを攻撃するものとなってしまった、ということなんですね。
ではどうすればいいのか?私たちを守るべき<貨幣>が私たちに刃を向けたとしたら?
<金融危機>だって元はと言えば人間が創り出したモノ。だとするなら、また新たに私たちの創造力をもってして新しい防衛手段を創り出すべきだし、それは可能だと信じたいと思います。

2008年10月08日

世界的な金融危機

米国初の金融危機の取材を連日しております。
投資家に直接お話をうかがっている間に一番耳にする言葉は、
「ここはガマンするしかない」というとです。
アメリカでの金融機関救済策が下院を通過しても市場が好感しないこの状況をみて、
ここはもう嵐が通り過ぎるのを待つしなかい、ということでしょうか。
昨日、取引開始直後から日経平均株価が一万円割れする様子を取材しました。

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そのときの写真ですが、各社のカメラが並んでいる様子がわかるでしょうか。
一番奥のカメラマンはロイター通信のカメラマンで、
ここで取られた映像を家に帰ってからBBCやCNN,CNBCなどの海外のニュースで見ました。
NY,欧州、そして東京をはじめアジアでも、、、という形で。
さて、今日も株価の取材です。
そして、この金融危機がどれほど「実体経済」に影響があるかどうか、という取材。
この「実体経済」ですが、英語でもそのまんまReal Economyですが、最近よく聞くのは
「main street」という表現です。
メインストリート?
つまり、ウォールストリートに対して、「本来主流であるべき実体経済=メインストリート」
ということなんだと思います。
でも、悲しいかな、ウォールストリートがメインになってしまっていたのが
今回の金融危機の根本原因なのかもしれません。

2008年05月08日

ご報告

ご報告です。

仕事用のブログをお借りしてプライベートな報告で恐縮ですが、
この度、結婚いたしました。

NEWS ZEROのフィールドキャスターは、従来通り旧姓の「七尾」で続けたいと思います。

今後とも「現場の生」をどうすればよりよくお伝えすることができるのか、
試行錯誤を続けながら取材を続けていきたいと考えています。

視聴者、HP読者の皆様、これからもどうぞよろしくお願い申しあげます。

2008年03月27日

2月末に北朝鮮に行って来ました

2月末に北朝鮮に行って来ました。
訪朝は、ちょうどアメリカのニューヨーク・フィルの 「歴史的な」平壌公演と重なり、世界中からメディアが集結していました。 「歴史的」、というのも、北朝鮮とアメリカ合衆国は、現在は休戦しているものの、 事実上、「戦争が継続している状態」にあるからです。

平壌で最高級と言われるホテルは高麗ホテルと羊角島ホテルの二つ。
どちらも前回より客が多く、なかでも各国のテレビ局・通信社の記者の姿が目立ちました。ホテルですれ違ったBBCの記者が、世界中に向けて中継をしているのを同じホテルの部屋で見るという、ちょっとフシギな感じがする現象が平壌滞在中続きました。やはりそれだけ「世界が注目」していたのです。

BBCを見ることはできても、やっぱり、というべきでしょうか。観光地のガイドが口をそろえるようにして「不倶戴天の敵」とするアメリカのCNNを見ることはできません。

西側、という言い方は今ではもう古めかしい感じがするかもしれません。でも、北朝鮮ではまだまだ通用します。というより、「西側・東側」という冷戦時代の枠組みがいまだ厳然として残っている場所、といったほうがいいかもしれません。

というわけで、あえて「西側メディア」というコトバを使ってみましょう。「西側メディア」は新聞もテレビもほぼ一様にmusical diplomacyー<音楽外交> というコトバを使って今回のNYフィル公演を評していました。

かつて中国との関係を「ピンポン」を使って改善させたアメリカは、今度は「ピッコロ」(まぁ他にもたくさんありますが、、、)の力をもってして北朝鮮との緊張緩和を演出しようとしている、、、と。

スタジオで村尾さんが「そしてNYフィルだけが残った」とコメントしました。
まさに言い得て妙なのです。現在の米朝関係は改善されつつあるというよりは、ある種の「行き詰まり状態」にあります。NYフィル公演が実現した背景はこうです。

昨年の米朝関係改善の流れの中で、アメリカの国務省(日本でいえば外務省にあたる役所)がバックアップする形でNYフィルが公演を行い、アメリカ<文化>の力によって<対話>ムードを盛り上げていこう、という、言ってみれば政治的意図が背景にありました。

ところが、北朝鮮の核プログラム申告に関連してウラン濃縮やシリア核移転疑惑が問題が発生して米朝を中心とする交渉がずるずると長引いています。先週13日にスイス、ジュネーヴで行われた北朝鮮の核申告をめぐる米朝協議でも、大きな進展はありませんでした。

かつての和解ムードの盛り上がりの中で開催が決定し、その象徴としての役割を担っていたはずのNYフィル公演。ところが、いつのまにか和解ムードは薄くなり、蓋を開けてみると、まさに「NYフィルだけが残った」という形。だからこそ、私がお伝えしたように、平壌で感じたのは、<歓迎ムード一色>とはほど遠い現実でした。

平壌を流れる大同江という川があります。3月を目前にしても、最高気温が零度を超えない日もあるほど寒い平壌では、大同江は毎年凍るそうです。今年は、「例年に比べると氷は薄い」ということでしたが、それでも春の気配を感じる日本からの来訪者にとって、ぶあつい氷の上を風に吹かれて滑ってゆく雪を眺めているだけで体感温度が下がってゆくようでした。

いまのアメリカと北朝鮮の関係は、平壌の凍てつく空気と、例年よりは薄いといいつつも依然としてぶあつい氷におおわれた大同江に象徴されているように思います。

北朝鮮は、変わったのか、あるいは変わりつつあるのか?

NYフィルと時を同じくして平壌を訪れた外国人が共通して胸に抱いた問いかけではないでしょうか。BBCのレポーターは、今回の公演と同行する形で、おそらく初めて北朝鮮を訪れたのだろうと思いますが、「自由に行動できない」ということを強調していました。当然と言えば当然のことに改めて気づかされました。それは、この国が外に対して、依然として「閉ざされている」という紛れもない<事実>です。広場で偶然でくわしたCNNのキャスター、クリスティーヌ・アマンプールさんが「Opening window 窓を開く」という表現をしていました。

今回のNYフィルの公演が「窓を開く」象徴的な出来事であることに間違いはないでしょう。朝鮮戦争でアメリカ軍が撤退してから「最大」のアメリカ人の団体が北朝鮮本土に足を踏み入れたわけですから、<歴史的>です。

では、北朝鮮は本当に「変わり」つつあるのか、「開かれ」つつあるのか。

見る角度によって大きく意見に隔たりが出てくるところですが、平壌で肌で感じたことから考えてみたいと思います。

まず、平壌の空港に着くなり、税関審査で携帯電話がすべて一時的に取り上げられます。これが「北朝鮮の入り口」で外国人がまず味わう体験です。北朝鮮に行く、となると、いろいろと勉強もします。何度も行ったことがある人に話を聞き、予備知識を集め、「共和国(北朝鮮の人は自国をこう呼びます)のルール」を頭にたたき込みます。そうすると、実際に北朝鮮に行って(たとえば携帯電話取り上げのように)驚くべき経験をしたときに、「そういうものだ、、、」と自分に言い聞かせるようになってしまいます。間違いを犯してトラブルになるのは誰だって避けたいものですし。

ホテルや観光地でにこやかに迎えてくれる従業員など、親切にしてくれる北朝鮮の人に接する度に「あ、この国にも当然ながらいい人はいるのね、そうよね、同じ人間だもの。大丈夫よ、、、」と言い聞かせながら行動するようになります。そうしないと、そもそも対話ができない、ということもありますし、また、こちらが知りたい日本への意見などを聞き出すことだってできません。

今回は、二回目ということもあり、前よりもリラックスしてのぞもう、と思っていました。ところが、、、行く先々で、「現在の朝日関係はサイアクの状態です、、、それもすべて日本のせいです」という言葉にふれる。近づきつつある米朝を、日本が邪魔をしているのだ、と言われているようにも思えました。日本だけが態度を変えない、六か国協議の足並みを乱している、ということなのでしょうか。

そんな中でも、なるべく北朝鮮に触れよう、この国の人が本当に考えていることに迫りたい、という姿勢を保とうと努力していました。そんなときに、世界中からやってきたジャーナリストが、世界中に「ホテルから自由に出られない。取材中も常に監視の目がある、自由はまったく許されておらず、この国が閉ざされている現実に変わりはない」と繰り返し伝えるのを聞いているうちに、ふと、「我に返った」気がする瞬間がありました。その時、北朝鮮で、平壌で、自分がどれだけの緊張感の中に置かれていたかを改めて実感したんです。

「郷に入れば郷に従え」と言いますが、北朝鮮でもそう努めていたんです。異国にいるわけですから、その土地ではその土地なりにあるルールを尊重しなくてはいけない。これは当然のこと。でも、この北朝鮮という場所を訪れるということは、「郷にいれば郷に従え」という諺で表現しうる様な「異文化体験」をはるかに超えた経験なのです。それは、どこにでも自由に行くことができ、ネットでもメディアでも(多少のルールとエチケットがあるとはいえ)個人が自由にものを言うことができる、自由な「民主主義社会」、いわゆる「西側」で育った人間が、携帯電話を奪われ、同行スタッフと交わす会話にも神経を遣い、日本から届いたファクスもプライバシーが守られるどころか、ホテルでコピーが取られて、DPRKの大きな印が押されたものを渡される、ホテルの外には一人で出ることは一切許されず、一般市民に話しかけることは固く禁じられている、そのような環境に置かれたときの、ある意味で当然の反応と言えるでしょう。

つまり、あまりにも自分が見知っている「世界」とは異質な「別世界」に身を置いた時、「これはこういうものだ、、、きっとそうなんだ、、、」と言い聞かせることで、自分を守ろうとするのではないでしょうか。一種の自己防衛本能。

北朝鮮で、何を見ることができるのか、、、ということですが、一言で言えば、何も見ることはできません。外国人の行動はすべて関連施設にあらかじめ予約を入れることで成立し、すべては管理されているのです。そのような状況で、「市民の現実」を知ることは不可能に近いもの。それでもかいま見えてくるものも、もちろんあります。ただ、今回私が強く感じたのは、「見えないようにさせる」システムの頑丈さ、堅牢さ、です。これを受けて、「果たして北朝鮮は変わったのか」という問いに対する答えは、自ずから明らかになるように思います。

今回訪ねた、エリート教育機関である平壌外国語大学の、英語学部の教授と話す機会に恵まれました。彼は、とても明朗で美しい発音の英語を話す紳士でした。CNNもBBCも、アメリカの映画もTVドラマも学生と共に見ている、ということです。「海外の情報を勉強することは大事ですし、私たちの大学、そして学生は非常に開かれており、日々活発な議論が交わされています」と言われたので、こう、聞いてみました。

「今回のNYフィルの公演を受け入れたということは、北朝鮮が外に対して扉を開こうとしているあらわれ、と捉えていいのでしょうか?」

彼の答えは;
"We have been always open.  We have never closed any window."
「私たちは今までもつねにオープンでした。私たちが扉を閉ざしたことなどありません」

思わず息を呑みました。彼の自信たっぷりの語り口から、目の前の人物が心からそう信じて言っているということがよくわかったからです。そして、聞いてみました。

「拉致問題への北朝鮮の対応に、日本国民は非常に怒りを覚えています」

そして彼の答え;
"And do you believe in that?" 「そんなことをあなたは信じるんですか?」

「常識ある人間がすることとは思えない」というニュアンスで言われました。あまり時間がなかったので、拉致問題の具体的にどの部分を指して彼がそう言ったのかをつきつめることはできませんでしたが、おそらく、現在の日本側の主張すべて、だと思います。多くの明らかに不合理な点が含まれる拉致被害者の方々の報告書や、遺骨の問題など。

そう言われたとき、私はつい絶句してしまいました。でも振り返ると私は次のように言いたかったし、言うべきだったと思っています。

What do you expect Japanese peole to believe in? 
一体日本の人に何を信じろ、と言うのですか?

私が北朝鮮で感じて、見て、聞いたことの一部です。果たして、北朝鮮は「変わった」のでしょうか、そして「開かれた」のでしょうか。


2008年03月03日

暗礁に乗り上げたかギョーザ問題

先週、中国の捜査当局(公安省)が
「殺虫剤の投入が中国国内で発生した可能性は極めて小さい」と
公式の見解を、異例の生中継会見で発表しました。

日本側はすでに「日本国内での混入の可能性は極めて低い」
と公に発表していますから、日本の消費者が心から求めている
「原因究明」は暗礁に乗り上げてしまった形です。
その中で、中国商品を取り扱っている日本の輸入業者への
ダメージは非常に大きいようです。天洋食品との取引を
やめる会社が相次いでいる中、タイ、カンボジアなどの国を
新しい生産拠点として模索する動きも目立ってきているようです。
中国産冷凍ギョーザへの殺虫剤混入事件
が明るみ出てすぐに、取材に応じていただいた大阪のワントレーディングという食品輸入会社では、天洋食品から仕入れていた商品を調べたところジクロルボスもメタミドホスも検出されなかったということです。
ただ、今回の事件を受けて、やはりこの会社も中国以外の生産拠点
を探すべくタイなどの国を調査中で、外国だけでなく国内の生産も念頭に入れているということです。

<食>の海外への依存度が高い日本。一般庶民にとっては、賃金も
上がらないままに、遠くで起きていた感のある日本の「好景気」にも
アメリカのサブプライムローンの影響で暗雲たれこめる状況の中、
やはり少しでも<安さ>を求めてしまいます。
そんな中、「国内産」がより一層注目を集めていますね。
有機栽培だけでなく、肥料を一切使わない「自然栽培」など。
今回の<ギョーザ>事件が日本に住む人々に「食」を改めて考える
ひとつの契機になっている部分はたしかにあります。
ですが、被害者が実際に出ていることですから、やはり日中両国の
捜査当局にはきちんと情報を共有して原因究明を進め、消費者に
納得の行く形で報告してもらう、ということが何より大事です。